酒林 随筆特集

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酒林 随筆特集

『当社は、心を大切にし、食文化を通して社会に貢献し、業界を代表する企業になることを目指す。』という経営理念の下、日本酒と文化の融合を考え昭和30年より『酒林』を発刊しております。

下記より随筆特集「酒林」(PDFファイル)がご覧いただけます。(第72号~)

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「夢」野口武久(詩人)

夜明けに見たのはたしかに夢
いつかきっと
と心に思ったのも夢
哀しいことがありすぎるから
苦しいことがありすぎるから
ひとは優しい心になって
夢の渕を裸足でめぐる
深い森の中をさまようように
美しい夕日の沈む海岸を見ているように
夢のような風景はどこにでもある
あこがれが靜かに深くなってゆくと
やがてもどかしさが帰ってくる
哀しいことも
苦しいことも
解けて空気のように見えなくなる
時間とともに遠のいてゆくのも夢
夢が「時間」を喰っているからだ
貘のように

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「ほろ酔い詩歌紀行」日高昭二(神奈川大学教授)

酒器のひとつに「徳利」がある。その語源は、酒がその口から出るときのトクトクという音からきたといわれる。元の形はトクリで、トクは擬声語、リは副詞でサラリ、キリリなど語尾につく状態をあらわす接尾語、などと説明している辞書もある。

この「徳利」とならんで、わたしたちに親しいことばとして「銚子」がある。金属製で注ぎ口があり、鍋型をしていて長い柄がついている。そういうところから「長柄の銚子」とも呼ばれるが、この「銚子」の語源は今一つはっきりしないという。

この「銚子」とともに、よく使われるものに「猪口」があるが、この方は形が猪の口に似ているところからつけられた名前で、燗酒の習慣ができて以後、一般的になったことばであるという。

この「銚子」や「猪口」の前となると、「瓶子」であろう。このことばについては、『古今和歌集』のなかに、こういう一首がある。

  • 玉だれのこがめやいづらこよろぎの磯の浪わけおきに出でにけり

藤原敏行の歌である。歌の前に掲げられている序詞を読むと、殿上人たちが女蔵人に銚子を持たせて、「后宮の御方」に酒の無心をしたのだが、何も言ってこないので、一体われわれの銚子はどこに行ってしまったのかと、女蔵人に言い送ったという説明がある。この一首でお面白いのは、「玉だれのこがめ」ということばであろう。つまり小瓶(瓶子)を小亀に見立てたことばで、それとあわせるように「おきに出でにけり」とあるのが、后宮の前までも小瓶を持って出たということになるわけであろう。瓶子が小亀のように姿が見えなくなっているという表現など、じつにユーモラスで、酒を無心している酒飲みたちの心がよく示されているというべきであろう。

こういう酒飲みたちの心理の、行き着く先はといえば、いっそのこと酒壷そのものになってしまいたいということにもなろうか。大著『酒』の著者である住江金之博士によれば、死んだら陶器製造所の近くに葬ってくれ、そしたら百年後には土となって酒壷の材料となることもできるから、という遺言を残した人があったとか。また、かつて大阪の千日前には、作者は不明ながら、次のような石碑が建っていたともいう。それについては博士は、男の歌とともに、女房の返歌も合わせて紹介してくれている。

  • われ死なば備前の土となしてたべ徳利となりて永くさかえん
  • 望なら備前の土になしもせんもしすり鉢になつたときには

じつは「徳利」の語源には、もう一つあって、備前焼きは安価で堅牢であることから、文字どおり「徳利」と呼ばれたという説があるのだという。そうした「徳利」と「備前」のかかわりを合わせ考えてみるとき、この歌の興趣が一層増してくる。

酒にまつわる詩歌は、それを飲んでいる人の生活の風景までもよく表してくれる。竹筒で飲む場面や茶碗酒などもそうだが、また角樽から直接枡に受けて飲む場面など、いろいろある。そうした風景に酒器のさまざまな種類や形が重なってくることで、酒の歌はさらに陰影が深くなるともいえよう。

たとえば「白鳥徳利」など、例の白い釉薬がかかっているもので、頸が長くて白鳥のような形に似ているところから付けられた名前であるが、なかなか優雅な呼び名である。それと逆に、私たちに親しい徳利の名前もある。

  • 三合の酒飲みあげてもろともに朝寝して居る貧乏徳利

酒豪で名高い狂歌帥酔起亭天の広丸の歌だという。「貧乏徳利」は、その多くは一升入りのもので、酒屋と台所をいつも往復するところからつけられたともいうが、それと「もろともに朝寝して居る」風景とは、見方によっては、じつに雅趣があるともいえよう。

  • 徳利の向うは夜霧、大いなる闇よしとして秋の酒酌む

佐佐木幸綱の一首である。この徳利は、備前であろうか、それとも青磁であろうか。頸の長いものか、白鳥型か。その形の向こうに、現代人の魂のありかを見据えた一首である。

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「羽村の螢」内野潤子(歌人・エッセイスト)

今年の夏、久々に螢を見ることができた。青梅線の羽村に住む下の娘の家から、程近い多摩川でも螢が飛ぶというので、泊りがけで連れていってもらった。

羽村の螢を見るのはこれが二度目で、初めに見たのは、二十年程昔になる。

その時は、丁度春に婚約した下の娘が相手の青年に、お母さんも一緒に螢見にいらっしゃいと誘われて、娘の車で出かけたのだが、これから娘の住む羽村町はどんな処なのか、私は不安と安堵の入りまじった気持ちで、娘の婚家へ向かったのだった。

夏のことで夕方まだ明るいうちに出発して、途中で食事をしていこうと青梅街道を走り出した。

娘は当時中学の教員をしていて、車で通学していたので運転は馴れていた。しかし、婚家には病床の舅や姑と姑の姉と独身の義姉が居るという条件の中に自分が飛び込めるかどうかという重い気持ちを持っていたと思う。
同居はせずに、母屋の隣りに新居を建てて迎えてくれることにはなっていたが、私も只安心するという気持ちではなかった。

しかし相手の青年が実に人柄のよい人で、娘の父親と同じ職業であったことなどが二人を結びつけたのだった。
私も相手の家に初めて行くというのが、螢を見るということより先行していたのは確かだった。途中のファミリーレストランに入り夕食を注文した。それがなかなか料理が来ない、そういう時にかぎって簡単な料理なのに出てこない。時間はどんどんとたつ、ようやく運ばれてきて食事が終る頃は、もうあたりは真暗になってしまった。
私はそんな時ははらはらどきどきするのに娘は決して狼狽えたりしない。

約束の時間は迫り車は暗くなった青梅街道をひた走りに走った。ゆけどもゆけども、羽村は遠かった。この娘を溺愛していた夫は、そんな東京のチベットのような所に住むのかと嘆いたものだった。

街の灯も少しづつ少なくなり、山が近くなると空も広くなり次第に淋しい道になってくる。もの云う元気もなく黙って車を運転する娘の隣りに座っていた。

ようやく辿りついた家は、街の広い道の角にあって庭のある家のようだった。青年と姑は心配して車寄せの前で待っていてくれた。

そのまますぐ螢を見に出かけるという。

青年の車で山の方へ向かう。全く知らない土地で、大分走った所で一度止まり、「この辺にもいたんだけれど」と降り立つと、豚を飼っている農家の近くでその匂いがした。

そこを離れて又細い山道を登り車を止めると息づまるような真暗闇である。

人の顔も姿も見えない。少しずつ歩いてゆくと、そこには青い光がいくつも漂っていた。

光ったり消えたりしながら螢は近く来て又遠のく。私たちの前には男の人が二、三人いてどうも網でとりに来ているらしい。

自然保護地区で勿論それは許されない場所と思うのに、がやがやしながら光の近づくのを待っている気配がした。
流れもあるらしいのだがそれも音のみで何も見えない。何か切羽つまったような気持ちで、私は闇の中に立ちつくしていた。

その日は青年の家に戻り手作りのまぜずしをいただいて帰ってきた。自宅についたのは夜半十二時になっていた。

それから二十年を経て、娘は今三人の子供の母親である。高校生の長女、中学生の長男、小学生の次男と育ち盛りの勢いの中で立ち働いている。次男の誕生の時に務めは一応辞めた。次々に生まれて来る孫のために、私の羽村通いは数しれずとなり、亡くなった夫も孫のためにどれだけチベット通いしたことだろう。

青梅街道より羽村に近い新青梅街道を通り今回の二度目の螢見物に連れていってもらったのはお盆の前々日のことである。

参加したのは私と姑と義姉と娘夫婦に小学生の次男坊である。蒸し暑く、赤い月が出ている中、車で多摩川の近くへゆき、土手に登ってしばらく行くと、一処川が分かれて流れの急な場所に螢がいるという。目を凝らすと一匹、又一匹草むらからふわりと流れて近くまで飛んでくる。私は一昨年亡くなった夫のことを娘は父のことをやはり思い出していた。

二十年前の螢より光は乏しい気がしたが心は穏やかで懐しく、もの哀しい螢であった。

翌日、娘に送られて電車で帰路についた。丁度お盆の前日で途中の夫の墓のあるお寺に娘とお参りに行った。娘はタオルで墓石を丁寧に拭く。私の生家ではその様な風習はなかったが、羽村の家は墓を大切に扱うらしい。

夫の墓参りを済ませて食事してから娘に別れて乗った帰りのタクシーは、モーツァルトの曲を流している個人タクシーだった。夫が朝夕浴びる程聴いていたモーツァルトの調べに包まれて二度目の螢見物は終わったのだった。

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「マネキン」佐川毅彦

朝六時頃、健康のため散歩にゆく。
あるマンションのゴミ集積場に半透明の大きなビニール袋が三つ置いてあった。
なんだ、これは、びっくりした。口が開いていて、髪の毛がクログロと外にとびだしあふれている。
ビニールを透かして顔もみえる。たくさんの人間の首がつめこまれている。
まさか、そんな馬鹿な。
よく見るとマネキンだった。ホッとしたが、とても気味が悪い誰が捨てたんだ。
人騒がせなと思いつつその場をはなれ、歩きつづける。
一時間近く歩いて自宅へ引き返す。
先ほどのマネキンの事はすっかり忘れていた。
ゴミ集積場を通った時、また、びっくりしてしまった。やはりなんとなく怖い。

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「猫が階段で寝ている」片岡義男(作家)

いつも乗り降りしている私鉄の駅から現在の僕の自宅まで、やや急ぎ足で歩いて三分ほどだ。その三分間の道のりの大部分は、階段によって占められている。段数は百二十段ほどある。僕の自宅があるあたりは高台になっていて、その下の駅や周辺とのあいだには、かなりの高低差がある。駅へ向かうときにはこの階段を降りる。電車を降り駅を出て自宅へと帰るときには、この階段を上がっていく。ときたま、駆け上がることもある。

現在の自宅へ引っ越してから七年が経過し、いまは八年目に入っている。階段を使うようになったのは、いまのところへ引っ越して以来だ。それまでは、おなじ駅から歩いて七、八分のところに、二十年ほど住んだ。その自宅へいくには、おなじ高台をまず上がるのだが、階段から東へ五十メートルと離れていないところに坂道があり、そちらを利用していた。途中までは階段で、あとは気持ち良く急傾斜の坂道だ。

この坂道のほうを登ったり下ったりしていた頃にはまったく見かけなかった一匹の雌猫を、西側の階段を使うようになった初日に、僕は見た。階段で寝ていた。引っ越した次の日だから僕はなにかと忙しく、階段を少なくとも三度は、登り降りした。そのつど、おなじ場所に、あるいは少しだけ離れた場所で、猫は寝ていた。この階段を日常的に使う人なら護でも知っている猫だ。階段猫、と呼んでいる人たちもいる。

愛想をふりまくタイプの猫ではないけれど、だいたいにおいて可愛がられている。階段に面して建っている何軒かの家のひとつが、外で飼っている猫だと僕は思っていたが、どこの飼い猫でもなく、近くに住む主婦が食事や水の世話をしているという。食事の時間に彼女の家へいくと、そこにはキャットフードと水が用意されている、ということのようだ。僕の家の食堂から見下ろす道を、この猫が夜中に歩いているのを、ふと窓ごしに見ることもある。

階段のどこかで寝ているか、そのあたりを歩いているか、あるいはどこにも姿が見えないか、その三とおりの生活習慣を、この猫は守っているようだ。

寝る場所は階段のあちこちだが、ここあるいはあそこ、さもなくばあのあたり、というふうに、いくつかのきまった場所がある。階段のまんなかの人が歩くところに、長々と体を横たえてひっくり返っていることもある。夏に向けて暑くなっていく季節に、こうしていることが多い。その季節には、階段のそのあたりを、風が吹き降ろすのではないか、と僕は思っている。

階段の端に前足を揃えてすわっていると、僕は立ちどまって頭を撫でてみたりする。立ち上がって僕の脚のあいだを、体をすりつけながら、何度も出たり入ったりすることもあるが、なんら反応を示さないこともある。猫にも気持ちの乗らないときはあるのだろう。

三年ほど前、ある日の夜、この猫が階段から自宅まで、僕を先導して送ってくれたことがあった。まださほど遅くない時間、駅を出て道を渡り、階段を途中の踊り場まで上がっていくと、そこにいつもの猫がすわっていた。立ち上がって僕を見上げ、「ニャーン」と優しく言うと、僕の先にたって階段を上がっていった。三、四メートルあとから、僕も階段を上がった。

階段を上がりきると右へいく。先を歩く猫は右へ向かい、途中で斜めに道を渡った。僕の自宅は道の向こう側にあり、僕はいつもそのあたりで斜めに道を渡っている。そこから十メートルほどで、僕の家のガレージが道に面している。このガレージの前から、高いところにある敷地に向けて、階段がある。道からガレージの前へ入り、そこを横切り、猫は階段を上がっていった。はっきりした目的のもとに、明確な意思にもとづいて、猫は歩いていた。
うしろから見ていた僕には、そのことがよくわかった。

階段を上がるとそこには門がある。門の前で前足を揃えてすわった猫は、階段を上がってくる僕を見上げ、「ニャーオ」と言った。この猫は僕という人を別することが出来るのだ。しかもその僕の自宅がどこであるかも、正確に知っている。そしてそれだけではなく、なんらかの理由によって、その夜だけは、僕を自宅まで先導して送ってくれたのだ。

僕は門を入り、玄関に向けてさらに階段を上がった。そしてドアの前で立ちどまり、猫に顔を向けた。猫は「ニャーン」と言った。「おやすみ」と僕は応え、ドアを開いて家のなかに入った。駅への階段を歩けば、往きか帰りにはほぼかならずこの猫と会うのだが、僕を自宅まで送ってくれたのは、これまでの八年間、このときただ一度だけだ。梅雨が明けて日中の気温が三十五度の今日、僕は階段を歩いた。往きにも帰りにも、猫は階段の好みの場所にひっくり返り、ただひたすら暑さに耐えているように見えた。